エキスパート解説エキスパート解説

人的資本経営時代の
キャリアとリスキリング

田中 研之輔

法政大学キャリアデザイン学部・大学院 教授

「人材版伊藤レポート2.0」の「リスキル・学び直しのための取組」の項には、「経営環境の急速な変化に対応するためには、社員のリスキルを促す必要がある。また、社員が将来を見据えて自律的にキャリアを形成できるよう、学び直しを積極的に支援することが重要である」とあります。しかし「キャリア自律」も「リスキル(リスキリング)」も、自発的な行動を社員に求めるゆえ、難しさがあります。そこでプロティアン・キャリア研究者の法政大学キャリアデザイン学部・大学院教授の田中研之輔氏に、人的資本経営とキャリア自律・リスキリングの関係や、その推進方法について聞きました。

取材・文=菊池壯太 写真=田中研之輔氏提供

目次

人的資本経営とは、一人ひとりの可能性を信じて伸ばすこと

Q最近よく使われる「人的資本経営」という言葉を、どのように捉えておられますか。

田中 研之輔(以下敬称略)

これまで、ヒューマンリソースマネジメント(HRM)、つまり「人的資源管理」で考えられてきたのは、組織内キャリア、組織の中でどうキャリアを積んでいくかということが中心でした。なおかつ人の能力は基本的に画一、均一であることを前提としていました。これに対して、キャリア自律によって各人のポテンシャルを引き出し、人的資本を最大化させるのが「人的資本経営」です。大きな違いは、人的資本経営では、人的資本は投資をすれば変化し、成長するものと考えていることです。

このように人を資本(キャピタル)として捉える時代が来るであろうことは、以前から予測していました。2019年に『プロティアン』という本の中で、環境の変化に応じて柔軟に自分を変化させながら成長していく「プロティアン・キャリア」の考え方とともに、「キャリア資本論」について解説しています。

Q「キャリア資本論」と人的資本経営はどのような関係なのでしょうか。

田中

私が提唱する「キャリア資本論」は、キャリアを次の3つの資本―「ビジネス資本」、「社会関係資本」、「経済資本」で捉えるというものです(図1)。人が「働く」ということは、ビジネス資本と社会関係資本の蓄積に他なりません。それらが溜まっていくと、経済資本、つまりビジネスにおける結果、成果が生まれます。たとえば、著名な成功者たちは、ありとあらゆる場面でビジネス資本と社会関係資本を貯めています。そして、そうした蓄積を自身のビジネスに転換して目覚ましい成果を上げているのです。
そして、従業員一人ひとりの「キャリア資本」の積み上げこそ、人的資本です。

図1: 3つのキャリア資本

人材戦略に求められる3つの視点・5つの共通要素の図解

“静的”モデルから“動的”モデルへ

Qキャリア自律で従業員のポテンシャルを引き出すことが人的資本の最大化につながる、ということですが、日本企業でキャリア自律の障壁になっていることとは、どのようなことでしょうか。

田中

私が問題だと思っているのは、これまでずっと「人は変わらない」ことを前提にしたスタティック(静的)なモデルで人事の仕組みや施策が行われてきたことです。採用も配置もリテンションも、すべてスタティックなモデルに頼ってきてしまったゆえに、「失われた30年間」になってしまったのだと考えています。キャリア開発でも、「あなたは何をやってきましたか」という、過去の、もう変えられないキャリアの棚卸が中心でしょう。

しかし、これからはスタティックなモデルではなく「何を成していきたいのか」、「どう変わっていくのか」というダイナミック(動的)なモデルで考えることが重要です。そして、改めて人を「資本」として見直す。人によってつくられるモノ(資源)は静的で変化しませんが、人は動的で変わることができ、具体的に行動やコミュニケーションなどを変えることによって変化に適応できるのです。

変わることのできる人材、一人ひとりの可能性を信じて伸ばすこと、そして戦略的にそれを設計していくことが人的資本経営だと私は捉えています。

データドリブンで人的資本を可視化する

Q企業でパルスサーベイ等のツールを使った人的資本の計測にも取り組まれていますが、具体的にはどのように計測できるのでしょうか。

田中

私はいま、「キャリアオーナーシップとはたらく未来コンソーシアム」※の顧問・ファシリテーターをしていますが、そこで、とある診断ツールを使って、自律的キャリア形成支援の状況、つまりキャリア資産(資本)を可視化できるようにしています。

既存の診断ツールは静的モデルに準拠しているので、ビフォー/アフターでの比較ができませんでした。一方、ここで使用している診断ツールや、他の私が企業と連携して開発したツールは、先ほど述べたダイナミックモデルによって変化を数値化でき、個人の経年比較だけでなく、組織や集団内での相対比較もできる行動変容診断です。3カ月ごとに実施すると、行動変容がスコアから見て取れます。

※キャリアオーナーシップとはたらく未来コンソーシアム:「個人の主体的なキャリア形成が、企業の持続的な成長につながる」という考えのもと、キャリアオーナーシップ人材の活用と企業の中長期的な成長について議論・実践・検証を行うもの。2022年度は、23の企業・団体が参画。

Qそれらの診断を通じて、見えてきた傾向を、事例を交えてご紹介いただけますか。

田中

いくつかの診断を通じて見えてきたのは、例えば、同一業務同一職種だと、キャリア資産は貯まりにくいと感じるということです。これはある企業の例ですが(図2)、赤い部分はキャリア行動が資産化していることを示しています。業種別で見ると、情報通信や小売・流通は赤い部分が多いですが、サービス業、交通インフラ、不動産関連事業に従事する人は、キャリア資産の蓄積が少ないと自己評価していることがわかります。

図2:ある企業の業種別キャリア資産(資本)

また、部門別に見ると(図3)、経営企画や社長室など、社外との接点が多い職種においてはキャリア資産が貯まりやすいけれども、経理、購買、製造部門は貯まりにくいと評価しています。これらの傾向を見ていくと、社内に閉じた職種においては、越境して学ぶ機会や複業などで社外と接点を持つ機会をつくるなどの行動変容を促すことで、自らのキャリア資産の再評価につながる可能性があります。多様なキャリアや部門・職種に応じた処方箋が必要なのです。

図3:ある企業の部門別キャリア資産(資本)

人的資本を従来のように捉えてしまうと、キャリア形成における多様な課題も組織的な要因ではなく個人的な要因へと収斂させてしまいがちです。そうではなく、このように業種・職種ごとの傾向を正確に捉えて対策を打ちたい。たとえば医療の世界はデータドリブンでの診断や研究が進んでいます。人的資本経営も、同じようにデータドリブンで組織や人材のコンディションを可視化していくことが求められます。

Q人的資本を最大化し、人への投資を増やすうえでは、どのようなことが鍵になるでしょうか。

田中

CHRO(最高人事責任者)のアクションに対して、経営陣が背中を押してくれないとうまくいかないと思います。社内公募制、副業・兼業の奨励などの制度は整っていても、実際は使われていない、あるいはキャリア自律が進むと従業員が辞めていくと考えているような企業では、キャリア自律どころか人的資本の最大化は難しい。ただし、先述の「キャリアオーナーシップとはたらく未来コンソーシアム」には23の企業・団体が参加していますし、2022年8月に発足した、人的資本経営を官民一体で推し進める「人的資本経営コンソーシアム」には、計320法人が参加しています。学びの機会やリスキリング、副業・兼業の支援など、人への投資によってキャリア形成を応援していかないと、優秀な人材を確保できないばかりか、企業の成長もおぼつかないという危機感の表れだと言えるでしょう。

リスキリングには丁寧な説明、承認、人生目線

Qリスキリングについてもお聞きします。キャリア自律同様、「自律的な行動を促す」という点で難しさがあるリスキリングですが、“新しい学び”を促すためにはどうすればいいのでしょうか。

田中

リスキリングは多くの企業が、既にそれぞれに取り組んでいますよね。しかし、よく行われている、サブスクリプション型のオンライン教材を提供するだけでは前に進みません。そうではなく、ツールは手段として使いながら、やはり組織内キャリアから自律型キャリアへの転換をめざす必要があるでしょう。

誰しも、自分の将来を明るいものにしたいはずです。ですから、まずはリスキリングの必要性を丁寧に伝えましょう。ある危機感の高い企業では、トップが「主体的に学んでほしい」とメッセージを出して、従業員たちのリスキリング行動を喚起していました。

個人的には、学びの喚起には感情報酬でも十分だと考えています。つまり、何かリスキリングといえる新しい分野の知識を学んだら、表彰制度などでそれを承認するのです。

ただし、必要性を説明し、モチベーションを高めるだけでなく、学ばないと成長しないことをきちんと理解してもらう必要もあります。たとえば、55歳、ミドル・シニアの非管理職で、まだまだ体は元気という人にとっては、どんな学びが必要でしょうか。私はよく、退職後も稼ぐための準備としてリスキリングが大切だという話をします。会社の業務ができているからといって学ぶ必要はないとは思わないでほしい。これからは時間軸を「会社」ではなく「人生」に合わせる必要があるのです。

Q日本の企業は学びに投資しない、あるいはビジネスパーソンが学びに時間をかけないという調査結果もあります。意識を変えていくにはどうしたらよいでしょうか。

田中

企業で実施されているキャリア開発が、社員のニーズに会っていなかったり、業務負担になっているケースも少なくありません。たとえば、キャリア研修と称し、1日8時間を4日間連続して実施するようなことがあると思いますが、そんなに冗長では、本気で向き合う人は限られるでしょう。

それよりも、学びの機会を通じた行動変容に目を向けるべきです。時間にしても、動画を倍速で流し見する時代ですから、1コマは60分や45分というように短くしましょう。私も、最近は10分コンテンツ6本といったイメージで研修やセミナーを組み立てます。それとともに、ゲーミフィケーションの要素を入れるなど、参加のハードルを下げる工夫も必要です。

コンソーシアムで導出された、6つの課題テーマとは

Q先ほどお話のあった「キャリアオーナーシップ(CO)とはたらく未来コンソーシアム」では、どのような議論されているのでしょうか。今後のことも含めてお聞かせください。

田中

コンソーシアムが一年間かけて行った研究会活動の成果をまとめた「はたらく未来白書2022」を2022年3月に公開しました。ここでは、部会をつくって「見える」「つなぐ」「増やす」という部会をつくって、論点を整理しました。

その後具体的に、コンソーシアムの第2期(2022年度)、課題テーマに落とし込んだものが、図4です。

図4:キャリアオーナーシップ経営の実践体系から導出された「6つの課題テーマ」
※はたらく未来白書2022(2022年3月発行)にて発表

「見える」は可視化(「CO人材・CO経営の診断・可視化」)の取り組みです。現状では、人材に関わるKPIが足りなさすぎます。従業員のキャリアや、施策の事業貢献性を数値化するために、診断ツールをつくって参加企業ごとにスコアリングをし、どういう取り組みが効くのか、あるいは効かないのかを明らかにしています。

「つなぐ」は、従業員のキャリアを経営や事業につなげるための「人事と他組織との接続」「企業文化の醸成・適合」「人事の役割とケイパビリティ」についてであり、変換期における人事のケイパビリティなどについて議論しています。

「増やす」は、キャリアオーナーシップ人材を増やすための「マネジメント層の役割と支援」と「非連続な環境の設定(副業・リスキリング等)」ですが、これも人的資本経営の重要なポイントだと思っています。

様々に検討したのですが、この6つのアプローチで捉えていけば、組織内キャリアを志向する企業でも、人的資本経営を促進できると考えています。現在は、各テーマで検討を深めています。

なお、今後は第2期参画企業がそれぞれ関心のある研究分科会に所属し、約半年かけて議論を深めていきます。その内容は「はたらく未来白書 2.0(仮)」としてまとめ、2023年3月に公開する予定です。

Q人事のケイパビリティとしては、今後、何が重要視されそうなのでしょうか。

田中

人事が労務的な働き方、あるいは管理型の働き方に囚われているようでは組織も成長していきません。そうではなく、人事は戦略ユニットでありグロースマネジャーとして振る舞う必要があると考えています。

最近、経営企画が人事を兼ねている企業や、人事統括者が執行役員副社長になっている企業も出てきていますが、私たちの理想とする形に近づいていると思います。そうなれば、経営陣、人事部門、従業員というレイヤー間のタイムラグも解消されます。人的資本経営では、特に経営と人事はフラットな関係であり、そういう転換期にきています。

人的資本経営や開示を目的化しないためには

Q人的資本の可視化が義務化されると、それ自体が目的化し、見せかけだけの人的資本経営や開示が行われる可能性があるのではないかと考えます。そうしないためには、何が必要でしょうか。

田中

様々な企業と協働していて感じるのは、経営層の理解の温度差です。人的資本経営、キャリア自律の必要性が経営層に届いておらず、組織内キャリアに依存している企業もまだまだ多い。しかし、今後、人的資本経営への取り組みを疎かにしていては、優秀な人材が採れなくなっていきます。もし本質的な活動にならない、ということがあれば、社内でその危機感を共有するのも1つの手でしょう。
組織は変化していく動態的特性を持っています。より良き働き方を現場の取り組みを通じて創出していきましょう。

法政大学 キャリアデザイン学部 教授  田中研之輔氏
田中 研之輔(たなか けんのすけ)

法政大学 キャリアデザイン学部 教授

UC.Berkeley元客員研究員、一般社団法人プロティアン・キャリア協会代表理事、株式会社キャリアナレッジ代表取締役/博士:社会学。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。日本学術振興会特別研究員(PD: 一橋大学 SPD:東京大学)、メルボルン大学元客員研究員。企業顧問33社歴任。書籍29冊。
専門はキャリア論、組織論。主著は『プロティアン 70歳まで第一線で働き続ける最強のキャリア資本術』(日経BP)、『人的資本の活かしかた 組織を変えるリーダーの教科書』(共著、アスコム)。

お役立ち資料

可視化の手段や育成プログラムをお探しの方へ

人的資本の可視化と育成ハンドブックの画像
人的資本の可視化と育成ハンドブック

資料の内容

  • 人的資本経営を進める際のポイント解説
  • JMAMの可視化支援サービスのご紹介
  • JMAMの人材育成支援プログラムのご紹介

資料をみる

人的資本経営と開示の全体像を知りたい方へ

経営戦略としての人的資本開示とは?のホワイトペーパーの画像
経営戦略としての人的資本開示とは?

資料の内容

  • 人的資本経営が注目される背景と潮流
  • 人的資本経営と開示の関係性
  • 具体的にどう測るのか、どこから始めるか

資料をみる

HRMメールマガジンのご案内

人材育成・人事の最新トレンド、人材育成担当者向けの調査資料、
無料セミナー等のお役立ち情報をお届けします。

人的資本経営の探究のイメージイラスト人的資本経営の探究のイメージイラスト

人的資本経営の探究menu

人的資本経営の探究人的資本経営の探究