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人的資本を最大化する
キャリア・リテンション
マネジメント 後編

山本 寛

青山学院大学 経営学部 経営学科 教授

人的資本を最大化するために、社員のキャリア形成を組織としてどうサポートすればよいでしょうか。働く人のキャリアとそれに関わる組織マネジメントが専門の山本寛教授に伺いました。後編ではリテンション・マネジメントを中心に解説いただきました。

取材・文=増田忠英 写真=山本寛氏提供、PIXTA

目次

若手社員のリテンションに必要な3つの要素

Qリテンション・マネジメントには様々な施策が考えられますが、企業が人材獲得競争に勝つために、特に重要になっているとお考えになることは何でしょうか。何が従業員の離職を思いとどまらせるのでしょうか。

山本 寛(以下敬称略)

まず若手社員についてですが、若手社員が会社に留まる理由は、数年前までは圧倒的にワークライフバランスで、残業が少ないことや転勤がないことでした。その後、働き方改革が浸透したことで、ここ1〜2年は、アンケートやインタビューで必ず出てくるのが「成長」です。働きやすさと働きがいの両方がないと、定着には結びつきません。そこで今、若手社員の退職を防ぐためには、「成長実感」を持ってもらうことが重要だと思います。それも1年に1度では長すぎるので、1〜2カ月に1度くらいは、「以前に比べると自分はこういうことができるようになった」という実感を持てるようにすることが大切です。

そして最近は、成長実感だけでなく「成長予感」が重要だと言われています。成長予感とは、「この会社に長くいれば、もっと成長できる予感が持てる」ということです。そのために重要なのは、1〜2年上の先輩がキラキラ輝いて、素晴らしい仕事をしていること。もし先輩が自分と同じような単純労働をしていたら、自分もあと2〜3年はあの先輩と同じような仕事しかできないのかと感じ、この会社にいてもしょうがないと思ってしまうかもしれません。

さらに、「貢献実感」という言葉もあります。会社へのエンゲージメントを高めるには、自分が成長して仕事ができるようになるだけでなく、自分がやった仕事で部署に貢献できたと実感できることが必要だからです。成長実感、成長予感、貢献実感の3つがそろうと、若手社員は辞めないのではないでしょうか。

そのために必要な施策としては、できるだけ年齢の近い先輩と関わりを持たせることです。5年離れるとジェネレーションギャップが生じるので、3年上ぐらいまでの先輩がいいでしょう。具体的な施策としては、もし対面が可能であれば、若手社員と先輩とで食事などを一緒にするための予算を会社が出します。そしてその場では、先輩に失敗談を語ってもらうのです。特に1年目の社員は、まさに“ジェットコースター状態”で、失敗と成功を常に繰り返しています。たとえば、新規のお客様を獲得できると「この仕事は天職だ」と舞い上がり、ちょっと失敗すると「もう辞めようかな」と落ち込みます。そんな状況にある若手社員に、先輩から「もっとずっとすごい失敗をしたけど、今はこういう仕事ができている」という失敗談を語ってもらえば、若手社員の肩の力がほどよく抜けるはずです。

また、中堅社員の報酬を上げると良いと思います。OJTリーダーのような立場の人たちが、結婚や子育てなどの生活基盤をきちんと築き、職場で活躍する姿を見せることで、先輩が輝いている職場だと若手社員に感じてもらうことが重要です。

先輩社員とカフェイいる女性社員イメージ※イメージ

リテンションを向上させたいなら、管理職の仕事を減らすべき

山本

様々なリテンション施策がありますが、肝心なのはコミュニケーションです。インタビューなどをしていて、会社を辞めない条件としてよく聞くのが、「風通しが良い」「透明度が高い」といった言葉です。これは、コミュニケーションが活発に行われているということです。コミュニケーションで大事なことは、お互いのことに関心を持って評価し合うことです。縁の下の力持ちのような行動を、みんなで褒め合うのです。

そのための具体的な施策として2つ挙げられます。1つは「表彰制度」です。昔からある制度ですが、各部署横並びでバランスを取ろうとするのはよくありません。頑張っている人がどんどん表彰されるように、みんなで選んでいくような仕組みが必要です。そしてもう1つは「ピアボーナス」です。スマホのアプリなどを使って、良いことをした人を褒めると、その人にちょっとした報酬が支給されるような仕組みがあるとよいでしょう。

リテンションのためにもう1つ重要だと思われるのは、とにかく管理職の仕事を減らすことです。本来、社員に退職の兆候が表れたら、管理職が気づく必要があります。しかし、管理職があまりにも忙しいと兆候に気づけませんし、社員からも声を掛けにくくなります。ですから、権限委譲を進めるなどして管理職にはある程度余裕を持って仕事をしてもらうようにすべきです。

多国籍のメンバーたちの2人が握手をしているイメージ※イメージ

40代の離職を防ぐために有効な施策とは

Qこの10年で45歳以上の離職が145%に増加したというデータがあります。リテンションの対象として中心的だった若手だけでなく、キャリアプラトーに陥る年代である40代の離職も課題になるようです。特に有効と考えられる施策はどのようなものでしょうか。

山本

40代頃になると、どうしても研修や能力開発の機会が減り、刺激が少なくなります。ただでさえ、同じ会社にいて同じ仕事を続けていると、同じ刺激であっても、それに対する反応は小さくなります。刺激が少ないと、内容プラトーに陥るでしょう。

もし順調に昇進できれば、仕事自体が変わったり、権限を持つことで責任やプレッシャーも重くなるので、大きな刺激になりますが、なかなか昇進機会がない40代の社員もいます。

そういった方には、異業種交流研修や武者修行研修などが大きな刺激になる可能性があります。異業種交流研修では、同じ世代や同じようなキャリアを持つ人たちが集まる場合が多いので、「自分と同世代なのに、こんなに違うのか」と参加者は刺激を受けるようです。武者修行研修は、たとえば1年間などの決められた期間、別の業種の会社に行ってまったく違う仕事を経験するというものです。異なる環境での仕事も、本人にとって大きな刺激になります。

ただし、こうした研修に全員を参加させることは難しいでしょう。そこで、研修に参加した社員を中心に「しゃべり場」「語り場」のような自由に話せる場を設けて、参加者の体験を社内に広げていくとよいと思います。

また40代になると、自分がどこまで昇進できそうかがだいたいわかってくると言われます。昇進の見通しが厳しい社員には、思い切って、これまでと異なる分野の能力開発(リスキリング)の機会を与え、専門性を向上させるべきです。新たな専門分野で活躍するには、40代が最後のチャンスだと思います。本人が主体的にリスキリングに取り組めるような機会を与えるとよいでしょう。

Q「昇進」はリテンションに効果的と言われてきましたが、昇進を望まない社員も多くいます。そういう社員に対して考えられるリテンション策には、どのようなものがあるでしょうか。

山本

昇進を望まない社員には、やはり専門性を伸ばしてもらうべきだと思います。場合によっては、それまで本人が志向してきた分野からの「脱専門化」、つまり専門分野を変えることも必要です。それと同時に、可能であれば副業を解禁し、別の可能性も追求できるようにすべきです。

リテンション・マネジメントに成功した3つの事例

Qリテンション・マネジメントに成功した企業事例をご紹介ください。

山本

食品製造のカネテツデリカフーズでは、現場の先輩社員がすべての新入社員を1対1で指導するマンツーマン制度(新入社員指導員制度)を導入しています。以前は「仕事は見て覚える」という昔かたぎの職場風土だったため、新人との間にコミュニケーション不足が生じ、スキルやノウハウが共有しにくい状況がありました。そこで、先輩社員と本人との間で月単位の目標を立て、翌月に一緒に振り返る仕組みを導入したところ、新入社員の3年以内の離職率が50%超から10%前後まで低下し、先輩社員にとってもマネジメントを学ぶ機会になり、社内コミュニケーションの活性化にもつながったそうです。

ソフトウェア開発のサイボウズでは、部署間の横のつながりの活性化のために「社内部活動」を推奨しています。複数の部署から5人以上の部員で構成し、年数回の活動報告書提出という条件をクリアできれば、会社から補助を受けられます。他の施策との相乗効果の可能性もありますが、この制度を導入した結果、離職率が28%から4%に低下したということです。若手社員にとっては、社内の人脈を広げることもリテンションのために重要な要素だと思います。

給食センターを運営するA社では、入社すると新入社員研修以降は各事業所や学校などにバラバラに配置されるため、新入社員の横のつながりがほとんどありませんでした。そこで、毎月1回集合研修を行うようにしたところ、直近3年の入社1年以内の離職が10人以上から1人に減りました。一見、研修を1回から12回に増やしたことでリテンションが向上したように見えますが、人事担当者の洞察によれば、リテンション向上の直接の要因は研修が増えたためではなく、コミュニケーションが改善されたことによるものでした。毎月研修で会うのであれば、SNSでグループをつくろうということになり、新入社員間のコミュニケーションが深まったそうです。

人的資本の開示は、人的資本を向上させるための手段

Qマクロな視点では、特にイノベーション人材については雇用を流動化させ、業界内で広く活躍してもらったほうがよいという議論もあります。人的資本経営の観点から、リテンションをどのように捉えればよいでしょうか。

山本

人的資本経営の理想は、能力開発に力を入れて「人が育つ会社」になることです。ただ、人が育つ会社は同時に「人材輩出企業」にもなり、優秀な人材の流出にもつながります。しかし、一部の高業績者が辞めたとしても、「人が育つ会社」というレピュテーション(評判)は採用面でプラスになります。採用とリテンションは車の両輪と言われています。ですから、多少ハイパフォーマーが辞めることがあっても、能力開発に力を入れるべきでしょう。

もちろん、職業選択の自由は個人の側にありますので、完全なリテンションは不可能です。そこで大事になるのが、一度退職した人に、また戻ってきてもらえるように「アルムナイ(卒業生)制度」を設けることです。退職した人と会社・部署の人たちの双方がOKであれば、たとえば会社の周年行事に退職した人も招くなど、薄くてもいいので関係性を持ち続けていくことが大切です。

また、企業単体ではなく、前編で紹介した三井化学のように、グループ内や、あるいは地域全体で雇用を維持する観点からリテンション・マネジメントを行うなど、リテンションの範囲を拡大することも考えられます。

Q最後に、人的資本の開示を目的化すると、真に意味のある人材マネジメントがおろそかになる懸念があるのではないでしょうか。その点について、先生のお考えをお聞かせください。

山本

情報開示の流れが進むことで、今後は情報を出さないと「あの会社には何かあるかもしれない」と疑われてしまうような方向に進む可能性もあります。それを防ぐために数字を作らなければいけないような状況になれば、まさに「情報のための情報」になり、人的資本の開示が目的化してしまいます。

経営学の立場から言えば、人的資本経営とは人的資本の質を向上させていくことであり、人的資本の開示はそのための手段であることを忘れてはいけないでしょう。

最後に、人的資本は、経営者や労働市場関係者から評価されるような知識や能力でなければいけません。エンプロイアビリティの観点から言えば、会社に居続けることもできるし、場合によってはより良い条件で転職することもできるような形で、従業員にとってもプラスになるものでなければならないと思います。

青山学院大学経営学部教授博士(経営学)山本 寛氏
山本 寛(やまもと ひろし)

青山学院大学経営学部教授 博士(経営学)

メルボルン大学客員研究員歴任 。著書(単著)に、『連鎖退職』、『なぜ、御社は若手が辞めるのか』、『「中だるみ社員」の罠』(以上日経BP)、『人材定着のマネジメント』(中央経済社)、『自分のキャリアを磨く方法』、『転職とキャリアの研究[改訂版]』、『働く人のためのエンプロイアビリティ』、『昇進の研究[増補改訂版]』(以上創成社)がある。
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