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第22回 「大衆の健康に奉仕する」大胆な広告で一世風靡
わずか1ミリの丸薬で一世を風靡した「仁丹」は、だれしもが口にした経験を持つ。発明した創始者の森下博は、薬品や医療設備の未整備な明治時代にいち早く、「大衆の健康に奉仕する」という理念を掲げ、総合保健企業を築いた。他に類のない広告戦略、トレードマークの大礼服姿とともに、この銀粒は世界の人に愛される商品になっていった。
発売からおよそ100年、日本人の脳裏に焼きついたこの長商品を開発した森下博とは、いったいどんな人物だったのだろうか。
不世出のアイデアマン「広告益性」を使命とする
森下は明治2年、広島県に生まれた。数え15歳の時、大阪・心斎橋の舶来小間物問屋に奉公に入った。時は、世をあげて西欧文明を吸収しようという時期。森下は福沢諭吉の『学問のすすめ』や『世界国尽』を学び、新しい時代、知の世界へに夢を広げていた。
明治26年に薬種を商う森下南陽堂を創業する。彼が着目したのは家庭保健薬である。当時は医者や薬局が圧倒的に少ない時代で、風邪や食あたりといった軽い病気でも命を落とす人が少なくなかった。森下も生まれつき胃腸が悪かったので、万病に効果があり、しかも携帯、保存に便利な薬を作れないかと考え続けた。
薬学の権威に相談して研究を進め、甘草や木香などの原料となる薬草を中国大陸から探した。売薬の本場の富山に何度も足を運んで生産方法を学び、彼は丸薬の携帯性を高めるため、表面をコーティングすることを思いついた。そうした努力が実り、明治38年、仁丹が誕生する。
森下は創業時に「原料の精選を生命とし、優良品の製造供給、進みては外貨の獲得を実現し、広告による薫化益世を使命とする」という基本方針を掲げる。彼の訴える食品販売・海外発展・広告益世、の三ヵ条の中で、「広告益世」は特に注目したいところである。
「よい商品を人々に知らすこと自体が世に益することであるが、さらに進んで1つひとつの広告そのものが人々に何か役立つようなものでなければならない」という信念のもとに積極的な広告宣伝を展開した。
彼は福沢諭吉が『時事新報』の社説に掲載した「商人に告ぐるの文」に心をひかれる。そこには「商店の売上の優劣は、その店がどれだけ人に知られているかによって決まる。広告媒体としては新聞が一番である」という趣旨が示されている。
森下の会社では全社員が宣伝拡張員となり、全国へ仁丹のPRに出かけた。そして、新聞・雑誌の大広告がこれと並行し、販売店と宣伝員を支援する。
仁丹の発売に当たり、森下は家財の一切を広告費につぎ込んだ。日本で初めて新聞の全面広告を連発し、薬店に突き出し看板やのぼりを設置。大礼服マークは当時の薬局の目印になったほどだった。
町名の表示がないため、来訪客や郵便配達人が家を探すのに苦労しているという話を聞き、悩みに答え、大礼服マークの入った町名看板を全国津々浦々の街角に掲げた。
「広告益世」の真骨頂ともいえるのが、大正3年からスタートした、「金言広告」だ。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」(福沢諭吉)、「堪忍は無事長久の基」(徳川家康)、「勝利は最後の五分にあり」(ナポレオン)など、古今東西の5,000種類の金言を、電柱広告や看板、紙容器などに取り入れたというから、驚くばかりである。
広告効果によって、仁丹は発売わずか2年にして、日本の家庭薬第1位となる。
海外での宣伝活動も積極的だった。中国に始まり、東南アジア、インド、ハワイ、南米の各地に出張所や支店を設けて宣伝隊を派遣、楽隊とのぼりの行進で人を集めて回った。
大正12年に年間広告費は100万円を超えた。仁丹の知名度は揺るぎないものとなっていた。
元大阪府知事の林市蔵は「彼はただの薬屋ではない。時代の持つ欲求を鋭敏に把握し、まったく新しい形で応えていった。大衆の健康に奉仕する、不世出のアイデアマンだった」と語ったという。
東洋思想ベースの経営マインド
確かに森下の独創性は、単なる開発ではなく、常に市場を見据えながら商品を送り出すという抜群のマーケット感覚にあった。
「森下仁丹」という古めかしい名前にもかかわらず、現在の同社のヒット商品はほとんど仁丹から派生している。仁丹のコーティング技術により、生薬製剤がさまざまな新しい大衆保健薬品を生み出したのだ。
仁丹そのものの売り上げは、いまや(全体の)数%に過ぎないが、収益源のビフィズス菌を使った保健薬や口中芳香剤などはすべて仁丹をベースにしたものである。大衆の健康に奉仕したいという経営思想は100年前と変わらず、現在の会社に受け継がれている。
仁丹のネーミングは構想から発売までの10年間、周到な準備が重ねられた。初めから国内だけではなく、中国大陸への輸出を念頭に、両方に通用する名称が考え抜かれた。字画が少なく、単純明快なものを求めた末、東洋思想の根本を示す儒教の「仁」を選び、「丹」は台湾で常用されている薬の名前からヒントを得た。
ここに見られるよう、明治の創業者たちは「片手に論語、片手にそろばん」を合いことばに、東洋思想をベースにして自分の経営マインドを確立させていった。特に森下の場合は、それを商品のネーミングとして使っている。現代の経営者もまさに日本人らしいアイデンティティーを確立するため、論語や仏教思想を大いに活用したいものである。
トレードマークの「大礼服」の由来については、孫の森下泰氏が生前、「あれはだれですかと尋ねると、森下は笑いながら『あれは軍人さんではなく、外交官だ。つまり、仁丹は薬の外交官なんだよ』と教えてくれた」と語っている。
このデザインは正確には、鹿鳴館時代の舞踏会に参加した外交官の正式な礼服からとっている。明治の外交官はエリートの象徴であり、国民の憧れの的であった。仁丹に、「健康を世界に運ぶ外交官」の姿を重ね合わせたわけだ。
森下は、店員の教養を高めるため、仕事上の経験などを話し合う談話会を毎月実施していた。この席で、商標の重要性についてこう語っている。「いったん採用した以上、将来変更がないものでないといけない。単純明快で、裏表どちらから見てもわかりやすいものが望ましい。さらに、国際的に不都合なものではいけない」
大礼服の帽子をかぶり、カイゼルひげはたちまち大衆の支持を受け、「保健の外交官」という役割を確実に果たしていった。
森下の「大衆の健康に奉仕する」に見られるよう、日本の名経営者といわれる人物は公への奉仕、貢献といった理念を強く打ち出している。
また、森下が福沢諭吉の思想に学んだように、その背後にはその時代、時代を導く人物の思想に学び、自分なりの経営哲学を確立し、それに沿ってすべての活動を展開している。
現代の経営幹部はノウハウ、ハウツーのテクノロジー(特にアメリカ型の)ばかりを追い、その導入に心を砕いているが、もっと先達経営者の思想や時代が変わっても不易の思想に心を傾けるべきではないだろうか。
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